割と真面目に悩んでます
こんちわ
割と些細なことかな?なんて思ったのだけれども、どうにも気になって仕方なく成ったので、書き記しておきます。
インターネットは世界中繋がっているのだから、だれかが反応してくれたらいいかななんて。
(例文)
“
夕方、村の若い衆はみんな屋敷に殺到した。
「御奉行様、そりゃないだ!」
と言って与作は泣いてすがった。足元では犬の太郎がクンクンと、わ
れ感せずといった顔で、地面を嗅ぎまわっている。
”
web上でうまく表示されているのか、ちょっと不安なのですが……
例文の一行目、日本語表記では、段落の最初は1字下げをするのが一般的ですよね。
で、会話文のあと、この例文の場合、3行目の頭は1字下げしております。
たぶん、これが一般的な組版表記だと思います。
新しい作品を組んでいるときに気になったのですが、
「段落の最初は1字下げ」が基準だとして、
会話文の次の文は改段落なのか、ということ。
会話文が始まる前で改行を打つのは、これは疑問は感じませんが、
(それでも、会話文の前も、改段落なのかという疑問もある)
会話文のあとは、段落が別れているのだろうか。
文の意味合い的な問題です。
段落を分けるときは意図的に改行を打つはずですが、
会話文は、意図して段落を分けるために改行を打っているのか。
会話文と、次の文は、別の段落なのか?と言う疑問です。
会話文とその次の文が、意味合い的と乖離していなければ、
行頭1字下げを行わなくてもいいのではないか、
というより、下げない方が意味合いが通るのではないかと。
知古文庫と称して、何冊か本を造っておいて、今更恥ずかしい疑問なのですが、
いままで造った物のテキストを見かえすと、
会話文で、こういう素直な会話のケースが少ない文章がほとんどだったのです。
Indesignの設定で、段落行頭は1字下げをする設定になっておりまして、
それ故に、いままであまり気に留めず、会話文のあとに1字下げをいれていました。
気になると、どうしても悩んでくる。
考え方はいくつかあって、
“
夕方、村の若い衆はみんな屋敷に殺到した。
「御奉行様、そりゃないだ!」と言って与作は泣いてすがった。
足元では犬の太郎がクンクンと、われ感せずといった顔で、地面を嗅ぎまわっている。
”
というやりかたがひとつ。これはよく見る気がします。
幾つか、うちにある資料をひもといたのですが、
このことに言及しているものが無く、
小説を参照したところ、
高楼方子さんがリブリオ出版から出している本は、
「」の次の行の字下げを、意味合いで使い分けています。
(ただし、“と言いました。”と言う感じの、あきらかに文脈が繋がっている場合)
ベバリィ・クリアリーの『ラモーナ』シリーズ、翻訳は松岡享子さんのものでは、
会話文の次の行は1字下げされているものの、
ほとんどの会話文が、「」の後に続けて文章が続いている。
(引用)
“
「そうよ。どこかにあった?」ラモーナは、さっきその子がいすの背をけったことも
わすれてきき返しました。
”
この2冊を見た時点で、書き手側は私の疑問に対して、何らかポリシーをすでにお持ちだと言うこと。
高楼方子さんの使い分けは、わたしのいえにある本は、全部意識的になされている感があります。
東京書籍さんのホームページに、参考になりそうなサイトがあったので、コレも引用しておきます。
“
A 意味のつながりによって,会話文に続く新たな文を一字下げするかしないか判断する。
B 意味のつながりとは関係なく,会話文に続く新たな文は一律に一字下げする。
”
出版している教科書にたいしてのQ&Aでして、でも、考えとしてはこういうことだと思うのです。
で、
“
結論的に申せば,どちらかを表記の基準として選択せざるをえないということであり,私どもはBの立場をとっております。
”
という見解だそうです。
教科書や文庫のように、出版点数の多い中で基準が統一されてしかるべきものなので、
統一ルールが出てくるのは必然ですが。
はたして、どれがいいのか。どれが読み手に気持ちいのか。
小説で、作者の意向も作品の重要な部分であるため、考慮に入れないといけない気がします。
割と真面目に、文章表現について悩みます。
なんでも、だれでも善いので意見をいただけるとさいわいです。
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| 《 引用 》
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| ベバリィ・クリアリー 『ラモーナ、八歳になる』松岡享子訳 2001年 学研 p.24
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| 東京書籍出版(http://www.tokyo-shoseki.co.jp/)
| 『小学校国語科に対するQ&A』「Q3:会話文の「 」(かぎかっこ)の後の改行について」
|(http://www.tokyo-shoseki.co.jp/e-mail/qanda/q-es-kokugo.htm#q3)
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コメント
改行が段落の終わりを示すので、次行は段落の始まりとして一貫させるほうが、読者にとっても自然だと思います。
会話文の直後で継続性があるから例外として扱う、といっても、継続しているなら改行自体が不合理です。
書いた人がやりたいからやる、というなら仕方ないかもしれませんが、原稿は書いた人のもの、本は組んだ人のもの、でもいいのではないでしょうか。
思い切って、全段落字下げなし、行末処理だけで読ませる、というのも、作業量的に凄みがあっていいと思います。
投稿: 千葉県北西部 | 2013年7月 8日 (月) 22時50分
こんちわ
コメントいただいて嬉しく思います。
えーっと、私の知っている、彼ですよね?
趣味もあるのですが、私としては、会話文「」で括られたあとに文がそのまま続くのは、あまり好きではないかな、という気持ち。閉じ括弧のあとは、次の行へ移るほうがすっきりしている気がします。あとは、“間”の問題ですかね。すかさず会話のあとに文が続くのは忙しなく思います。で、次行に字下げを入れると……ちょっと間を溜めすぎな感覚。
これは書き手の気持ちでしょう。
字下げ無しの話ですが、これを一度やったところ、以前、編集をしていた友人から非難されました。
とある編集者の書いた、編集についての本にも、最近字下げをしないデザイナーがいるが、けしからん的な意味合いのことが書かれていました。
たしかに、字下げをせずに本を組んでいる有名なデザイナーを知っています(必ずしも字下げをしないわけではない)。その人のデザイン理論を読みましたが、どちらの理論も筋が通っていると思いました。
WEBでは字下げをせずに、改行を駆使して記述したほうが読みやすかったりします。
私自身、段落について、あまり考えたことはなかったのは本音です。考えるというか、感じるままに本を読んでましたかね。
果たして、文章は誰のためにあるのか。
書き手のためもあり、制作側にもあり、最終的には読み手なんでしょう。だけど、読み手がなにを望んでいるか……?
このへんはデザイン的な哲学な気がします。
見る側に寄るのが絶対的に良いのだけれど、そこに作者側の思想がなければ、ものとして意味合いが薄い。
デザインする人は、いつも中間の板挟みな気がします。
組版する人の中にも歴とした哲学をお持ちのかたがいますから、そういう人の意志があらわれた本も面白いと思いますね。
ちょっと逸れましたかね
投稿: ちこ(本人) | 2013年7月26日 (金) 22時11分