肉への慈悲
こんちは
生前のフランシス・ベーコンのインタビューを収めた『肉への慈悲』という本を読んでいます。そろそろ読了というところ。
面白い本なんだけど、結局、展覧会で感じた混沌とした気持ちは晴れず。むしろ、言葉で解釈が加わるぶん、印象が薄まってしまった感もあって、危惧。
それほど、期待はしていなかったものの、理解する感じには到底及ばないと思う。
先ずベーコン本人が自分の絵についてそれほど明確な説明ができるほど論理的ではないような気がする。というよりは、本人が、論理的な解釈を拒んでいるというか。そんな感じ。
思うに、視覚を言語で解釈するのに限界があるように思える。本来の棲み分けがあるというか。理解っていう言葉は、言語に属している気がする。「ああ、そうか」って思うのは言葉の解釈。
ベーコンの、ときに曖昧な自身の論理も、言語で語り尽くせないことを顕しているように思える。
そういえば、カンジンスキーの『点・線・面』に書かれていた理論も、モホリ=ナジの『ザ・ニュービジョン』などの視覚言語の話も、興味深いのだけれど、完全に理解した、とは思えない(単に頭が悪くて理解できなかったと言う話もあるが)。それは、視覚でみることと、言語を使うことの違い、詰まり、言葉で語れない部分を視覚が持っているからだと思う。
ベーコンが、「心のバルブを開いて」絵を描くみたいなことを言っているのだけれども、絵を観るというときには、言葉を「読む」という感覚とおなじように、心を開いて絵を「感じる」ことのほうが大事だったりするんじゃないだろうか。たしかに、それは、言葉にしようとすると無理があって、さらに、伝えようとすると難しいのだけれども。
ということは、絵を前に、なんらかの感情が湧いたのならば、それなりに絵を理解できているってことかも知れないな、と。ちょっと弱い気はするのだけれど。
ベーコンは、写実と抽象についても繰りかえし話していて面白い。写実と抽象、かなり厳密にわけているようだけれども、あんまり差がないように想えてくる。
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