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2009年3月31日 (火)

想像力が豊かな人

こんちわ
いつも使っているスケッチブックに殴り書きがしてあったので、ブログにアップします。思いついたときにやらないと、結構忘れてしまうことが多いのです。

オーレ・ロン・キアケゴーの本を読みました。そこで思ったことは、想像力が豊かな人間というのは、我が儘な人のかもしれない、ということ。キアケゴーの作品の内容は、取り敢えずおいといて・・・ 想像力というものが、『一般の生活の中からかけ離れているものほど、豊か』であるとされるならば、いかに、常識的且つ社会的活動から距離を置くことによってもたらされる。ここで私は思うのですが、想像力が豊かな人間は、もしかすると、子どもの頃に余り怒られなかったのではないのか。詰まり、常識や社会性を、いちばん多く教え込まれるのは、(多分)親であり、家族である事が多い。親は当然、子を躾ける。それは親のつとめだし、子どもには社会に適応して欲しいのは当然だ。しかし、『一般の生活の中からかけ離れているものほど、豊か』な想像力は、きわめて現実的な社会常識の前では萎縮してしまう。詰まり、厳格に躾けられれば躾けられるほど、想像力は失われていくのではないのか、という結論。
リンドグレーンの作品の中に、『長くつしたのピッピ』『やねのうえのカールソン』というシリーズがあるが、この話を読んで、ピッピ(またはカールソン)に対して、イライラする大人も多いと思う。実際、作品の中に出てくる大人は、彼らに怒ったり、怒鳴ったりをする場面がたくさん出てくる。怒るという行為はとても難しい。果たして、それはなにに対して腹を立てているのか? 確かにピッピは突拍子もない発言や行動で周囲を困らせる。当然大人はそれに対して、怒る。しかし、打って変わって、子どもたちは、ピッピを理解するし、賞賛する。果たして悪いのはピッピか。怒ると言う行為は、自分の中に不快があるからだと考える。『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』の番組で『体罰』をテーマにしたときに、子どもが悪いことをした、そこで怒ることは正しいことを教えることかもしれないけれど、怒ることは自分の中に不快な気持ちがどこかしらあって、本当に殴ることは躾なのか暴力なのか、その線引きはとうてい出来ない(ごめんなさい、おおよそこんな感じだったと思います)、といった発言をしたのですが、これはとても的を射ている。怒りは、自分の中にある不快感、現実が思い道理に行かない苛立ちがきっかけになっている。つまり裏を返せば、怒りっぽい人というのはすごく了見が狭い人なのかもしれないんじゃないかと。
大人になれば、社会の中に厭が応でも組み込まれ、常識にとらわれる。子どもの奔放さというのは、非社会的なところが多い。どうも街の中をみると、子どもに対してガミガミ怒るの親が多いように思える。子どもの(非社会的であるところの)常識ではまだ、大人の社会的常識を理解できないはずなのだから、『ダメなものはダメ!』と、理由も詳しく説明しないで、頭ごなしに怒ってしまうのは、良くないことなのではないかと思うのである。まぁ、ここまでだらだら書いて言いたかったことは、このように自分の煩わしさで、子どもをしかりつけているのでは、とうてい豊かな想像力を持った子どもたちは生まれないだろうな、ということなのである。余り怒られなかった子は我が儘な気がするし、想像力が豊かな分、社会性は失う・・・ 結局はどちらが良いんだ?

・・・と、ここまで書いてみて、
想像力の豊かさは、厳格な躾から解放されたときに、反動で現れる人もいるかもしれない、とも思った。 

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